8月15日、今日は「戦没者を追悼し平和を祈念する日」です。
81年前の今日、玉音放送によって国民に終戦が告げられました。
父は終戦当時17歳。地元の農林高校2年生の時に予科練に入隊し、当初は茨城県の霞ヶ浦で訓練を受け、京都府の舞鶴で終戦を迎えたと話していました。
父は戦争中のことをほとんど語りませんでした。
「あと終戦が数か月遅れていたら、特攻隊で出撃していたかもしれない」
私に語ったのは、そのくらいでした。
苦しいこと、辛いこともたくさんあったと思います。しかし、その多くを息子である私に語ることはありませんでした。
父が他界して、今年で20年になります。
亡くなる何年か前、「舞鶴に行ってくる」と言って、母と二人で出かけたことがあります。自らが戦争を経験し、生き残ったことについて、あの時、母には何かを語ったのかもしれません。
晩年の父は、息子には厳しいことを言っても、孫には優しい好々爺でした。軽トラックに孫を乗せて、サワガニを捕りに行ったり、山菜を採りに行ったりしていた姿を今でも覚えています。
母は終戦当時12歳、小学校6年生でした。
母もまた、戦争中のことをほとんど語りませんでした。
実兄を亡くし、飛行場の石拾いなどにも動員されたそうです。
1945年7月の甲府空襲では、母の実家があった旧田富町から、甲府の街が夜通し燃えている光景を見続けていたことを、ふと話してくれたことがあります。
母が他界して9年になります。
戦中、戦後の動乱期に十分に勉強する機会にも恵まれず、農家の主婦として働き続けた人生だったと思います。
そんな母は晩年、読書が好きになり、生物や科学の本までよく読んでいました。
先の大戦では、軍人・軍属だけでなく、多くの民間人を含む約310万人の日本人が亡くなったとされています。
そして、戦争が終わったからといって、人々の苦しみがその日に終わったわけではありません。
戦後も深刻な食料難や混乱が続き、多くの人々が飢えや栄養失調に苦しみました。
戦争で亡くなられたすべての方々に、心から哀悼の誠を捧げます。
戦争を実際に経験した世代は、年々少なくなっています。
父も母も、戦争について多くを語りませんでした。
だからこそ、断片的に聞いた言葉や記憶を、次の世代に伝えていくことも、残された私たちの役割なのだと思います。
平和は、何ものにも代えられない大切なものです。
国民の生命と暮らしを守り、二度と戦争の惨禍を繰り返すことなく、平和な社会を次の世代へ引き継いでいく。
そのために力を尽くすことこそ、政治の最も重要な責務の一つだと、改めて心に刻む8月15日です。







