昭和・平成・令和と3世代を生きてきました。
思い起こせば色々な経験をして参りました。
父・母は既に他界していますが、2人がいなければ「私」もこの世に存在しない訳ですから、人生とは不思議なものです。
目次
[誕生そして幼少期]
私は高度成長期の前の「昭和32年(1957年)」の7月22日、甲府市後屋町に、農家の次男坊として生まれました。
当初はまだ日本全体が貧しい時代。
農地解放が終わり、養蚕と米、そして野菜を、「1,2ha」作る複合農家でした。※1ha=10,000㎡
小さい頃のお田植えは「手作業」で、牛が一頭いて田畑を鋤くのに使っていました。
(隣の家は馬を飼っていました)
養蚕は年3回から4回。お蚕さんが桑の葉っぱを食べる「サクサク」という音が夜になると怖くてしかたありませんでした。
当然、エアコンも灯油ストーブもありません。
炭をおこしてコタツに入れて暖をとり、夜は家の中でも半纏を着て過ごしていました。
夏はまず団扇、そして扇風機。
冷蔵庫もありませんから、果物や野菜を冷すのも「井戸水」を貯めた「プール」のような施設が冷蔵庫替わりでした。
保育園にも通っていましたが、家のそばの空き地に保育園の先生が迎えに来てくれて、ヨチヨチ歩きで1㎞以上歩いての通園でした。
小学校も2㎞ぐらいを歩いて通学しました。
小学校から帰ったらおやつです。夏はトウモロコシを茹でたもの、秋はサツマイモを蒸かしたものをよく食べました。
スーパーマーケットも、コンビニもなく、お菓子屋さんも近所にはなく、自転車に数種類のお菓子を缶に詰め、それを量り売りしたものを買う時代。
今では考えられないことですね。
ユニクロもしまむらもありません。
洋服も少々であれば母親にツギアテをしてもらいツンツルテンの洋服を着ていた時代です。
裕福ではありませんでしたが、夏はカブトムシやクワガタ採りに魚釣り等、遊ぶことには困りません。
メンコもビー玉も得意でした。
正に「三丁目の夕陽」の時代です。
[小学校時代]
低学年の時、落ち着きがなく一番前の席で先生と同じ方向を向き授業を受けていたそうです。
なんとなく覚えていますがよく父・母が嘆いていました。
高学年になると落ち着き、学級委員もしました。
通学に時間をかけていましたから、足は速くリレーの選手にもなりました。
よく近所の先輩・後輩とも木のぼりや三角ソフトボールに興じていました。
給食は既に始まっていました。定番は、コッペパンに脱脂粉乳のミルク。
食材はまだ豊富ではありませんでしたから、ご馳走は「カレー」と「砂糖をまぶした揚げパン」でした。
小五の時、給食室の前で、給食のおば様がイルカを丸のまま解体しているのを見て、イルカが食べられなくなりました。
[中学校時代]
中学校は自転車通学。
毎日ギリギリで教室に駆け込んでいました。
給食はなく弁当。弁当箱は「アルミ」箱です。梅干し、漬物、卵焼きがおかず。
時々マルシンハンバーグが入っているとご馳走です。
牛乳はなんとなく薄い牛乳。
陸上部に入っていたので、残っていた牛乳をよく飲んでいました。
中2の時、その牛乳のおかげか一年間に20㎝も身長が伸び、自分でも可笑しいくらい、身体がミシミシする位大きくなりました。
陸上部では3種競技(100m、走り高飛び込み、砲丸投げ)、それとは別に砲丸投げと、リレーの選手。
陸上部のキャップテンもしていました。
勉強はそれ程でもありませんでしたが、英語は良くでき、表彰も受けました。
[高等学校時代]
高校入学は昭和48年。
(1973年)高度成長から、オイルショックを経た後の丁度大変な時期。
先生や友人にも恵まれ、勉強にスポーツにと、色んなことを積極的にやりました。
高校2年の夏。人生を変える本に出逢いました。
「成長の限界」です。
世界は人口増加に比べ食糧生産の増加が追いつかず、大変なことになる、といった予言のような本でした。自分に何が出来るのか、本当に悩みました。
そして出した結論が、「砂漠を緑にしてそこで食料を作る」農業土木士を目指すか、それとも「これ以上人口増加がしないよう人口抑制をする」国連職員を目指すか。
あの頃から40年以上たった今、そのいずれかも人類は達成していません。
当時の世界の人口は39億人。今は77億人。
約2倍の人口増です。
今のところパンクはしませんが、地球温暖化で「持続可能な地球」かと 問われればNOです。
2年生は理科系で「砂漠を緑に!」がメインでしたが、物理・数3で挫折し、3年は文系に転身。
経済学部への道を選びました。
家庭の事情で浪人はダメ、
私学はダメ、
国立大学一本で、かつ現役で合格出来る大学をギリギリまで選択していました。
[大学時代]
昭和51年(1978年)東北大学へ進学。
寮生活、一週間目で新入生歓迎花見で撃沈。
仕送りは3万円、奨学金は2万円、半分は寮費と昼食代。半分は貯金しました。
当時、学費が年間「9万6千円」。
2年生の時に「食料人口問題研究会」を学部横断型に組織して主宰しました。
ここで「食料」の大切さを再確認し、その司令塔である農林省への入ると決め、3年生の夏から一念発起して公務員試験の勉強を開始。
一日15時間、ほぼ一年間の「苦行」でした。
4年生の秋には、農林水産省の入省もきまり、3月の卒業までは友人と東北地方中心に車で旅行に明け暮れます。
そして貯金したお金で初めての海外旅行に行きました。
[農林水産省時代]
昭和55年(1980年)農林水産省へ入省。
当時の総理は大平正芳総理。
4月中旬に代々木のオリンピック村で3日間の研修。何を話されたかよく覚えていませんが、大平総理はその2ヶ月後、急逝されました。かなり具合が悪かったかもしれませんが、「張りのある声」との記憶があります。
農林水産省での仕事は、経済局、食品流通局と食の現場に近い所の仕事でした。
国際経済課では、アメリカとの日米農産物交渉、特に牛肉・オレンジ交渉を支えました。
当時アメリカは、牛肉・オレンジを日本に大幅輸出拡大したい農業団体の強い圧力。
当時の農業人口は「700万人」、農家人口は「2137万人」。(現在は154万人と4分の1以下)
日本政府も工業製品をアメリカに輸出したいとのことで、農業分野での譲歩をせざるを得ない情勢でした。
日本国内の農業団体は、今とは比べものにならない強い政治力で「輸入枠」の大幅拡大は許さないとの立場。
公式・非公式の交渉が何度も行われ、日米双方の「妥協点」を探るのが「役割」です。
「枠」を拡大し過ぎると国内農業の価格低下を招き、農家所得は減少する。
アメリカ政府は「枠」の拡大が少なすぎるといい、国内の農家からは大きな批判がでます。
関係する全ての人々が「良かった」との答えは中々ありませんが、出来るだけ多くの皆さんが納得していただけることを基本に仕事に没頭しました。
国会でも連日「日米農産物交渉」の質問が何十問と、コピー機も今のようにソーター機能もなく、人間ソーターで連日「午前様」。
そして早朝は与党の説明の「カバン持ち」。寝る間もなく、食事をとるのも「カップ麺」がメインでした。
ハワイでの交渉が決裂した後、気が抜けてか⁉️高熱が出てダウンして、数日寝込んでしまったこともあります。
主な原因は「扁桃腺肥大」による発熱。
当時の国際経済課は日米交渉の他に、経済対策、サミット・GATT・UNCTAD・国際商品協定の省内の取りまとめ・調整です。
本当に忙しい日々を過ごしました。
延べで三年間の務め。
その後は食品流通局で、中曽根内閣時代の「円高」差益をどう消費者に還元するかを考えてきました。
自由主義の我が国ですから、政府が業者の皆さんに、いくら下げろとか指示をすることは勿論出来ません。
まず、実態を把握して、現状を分析するところからのスタートです。
当時輸入食品の流通は少なく、業者の把握とヒアリングをすることに多くの時間を割きます。
そして国民の皆さまに分かりやすい現状と今後の見通しを説明する資料の作成に多くの時間をかけました。
この時の経験のおかげで、流通の隅々まで理解することができたことは今も自分の宝となっています。
1987年には、JICA(国際協力事業団)に出向します。
ODA予算もピークの時期。日本も経済的に元気。技術も先端的でした。
インドネシア、スリランカ、フィリピン、フィージ等多くの国々に出張しました。
現地を確認し、話(要望)を聞き、技術協力を中心とした「プロジェクト」を作り、専門家を育てていく仕事です。
2年間、本当に面白い仕事をしました。
今では当時の海外と日本の比較をしながら今の日本の立ち位置を実感できます。
[JETROへ出向]
そして1989年の9月、ニューヨーク・JETROへ出向です。
初めての海外赴任。
沢山の仕事をし、沢山の経験をしました。
49州を訪れ、仕事以外にもアメリカの奥深い魅力と大きさを肌で感じました。
娘が誕生したのも、アメリカの病院です。
妊娠後期に飛行機に乗ったこともあり(日本の先生は大丈夫と言っていましたが)
「逆児」になってしまいました。産科の先生は台湾系アメリカ人。日本語も少しでき安心でした。
妻は、結果「帝王切開」となり、先生と契約・提携している病院に3泊4日で入院しました。
産科の先生と連携している小児科の先生、そして麻酔科の先生3人が手術室に。
私も中に入って立ち会いです。
小児科の先生が娘のお尻を叩いて泣いた時、凄く感動したことを今でも良く覚えています。
妻は翌日から自力でトイレに。
完全看護ですから付き添いは不要でした。
3日後、食事は「ディナー」。確かケーキもついて、看護士さんに歌を歌ってもらいました。
翌日病院の精算では、「2万ドル」と言われてビックリしましたがチェック(小切手)でなんとか支払いをしました。(私の父親にお金借りました。)
アメリカの医療費は噂どおり「とても高い!」と実感しました。
アメリカでの仕事はアメリカ農業・林業・食料の生産・流通・輸出入・地域の状況・政治状況を専門家・企業・公式資料を分析まとめて、日本国政府やクライアントに報告すること、そして日本からの視察団や個人のアテンド・通訳です。
忙しく仕事をしましたが、毎日充実した日々を過ごすことが出来ました。
三年間はあっという間でしたし、アメリカ国内外の隅々まで訪問することが出来ました。
[農林水産省へ復帰]
1992年の9月に日本に帰国。帰国はヨーロッパ経由。
帰国後しばらくは、米の自由化問題でアメリカの農業関係者に日本の現状を説明する為に1ヶ月かけてワシントンを中心に毎日説明会を開催していました。
膠着状態が続き、米の自由化交渉は棚上げ。
翌1993年5月、当時唯一日本が米の輸入をしていた「タイ」※(沖縄の泡盛は原料がタイ米)です。
日本が輸入する米の「安全性を確保・徹底した輸入の仕組み」を作ることがミッションです。
このことを上司から指示され、暗中模索でしたが、輸入前「3段階」の安全性確保の制度を考え抜き、上司から「任せる」と、全権委任されました。
途中中断もありましたが、タイ国政府と合意。
本邦初公開、世界で初めての仕組みを造り上げました。
数ヶ月間は何事もなく過ぎ、アメリカ時代のマイレージも貯まっていたこともあり、お盆休みを利用してのアメリカ旅行中、突然ホテルに東京から電話があり「直ぐ帰国せよ!」と指示がありました。
「今年は2年続いての冷夏。米が不足する。即、大量輸入出来るスキームを作れ」という理由からでした。
当時30年位、泡盛用以外の米を輸入することはなく、国内農業の状況を考えたら禁じ手中の禁じ手です。
輸入農産物の安全性も問題になっていました。
米を輸入していた当時の専門家もほとんどいなく、行政文書も本省になく、勝どきの「倉庫」で保管されていることを聞き、真夏の暑さの中で、数日間輸入していた当時の資料の発掘をしていました。
数日かけて100冊近くの資料を本省会議室に運び込み、読み込み、分析して、輸入制度の具体策の検討です。
現在に合致して、安全性等の確認、特別輸入ですから「通常の輸入国に出来るだけ影響を与えない」等、幾つもの要素を比較・考量します。
時間がありませんから連日徹夜に近い状態でした。
当時妻は妊娠中。不安定な毎日でしたが「9月3日」取りまとめの大詰めと合致した時期。
帝王切開の日。どうしても妻の顔だけでもと思い、病院へ。
エレベーターを降りた時、妻がストレッチャーで運ばれ顔だけ見て「頑張ってね」と声をかけ、付き添いでいた妻の妹に「よろしくお願いいたします」と言って役所に直行。
夜まで資料の取りまとめをして、改めて病院へ。妻と長男の顔だけ見ることが出来ました。
その後も一日一回、時間不定期で病院に行くものの、ゆっくり話す時間はなかなか取れませんでした。
今思えば妻と長男には申し訳ないことをしたと反省の限りです。
計画ができて、今度は具体的な輸入の作業。
ここで5月にまとめておいたタイ米の「三段階安全性チェック」の仕組みが生きてきます。
主な商社の部長さんにも参加してもらい、米の輸出余力のある国の選定作業です。
大使館や商社の現地情報を集め、アメリカ、オーストラリア、中国、台湾、タイを選定。
日本米に近い短・中粒種は世界的にも限定されています。そして、安全性確認は走りながら検査会社、大使館と調整しながら体制を作りました。
9月30日に細川総理が「米の緊急輸入」を発表。
アメリカ、中国、オーストラリアは少し遅れ、10月下旬にタイから第一船の入港が決定。
台湾海峡での台風で船が遅れましたが、無事横浜港に着岸。
当日はヘリコプターも飛び実況報道でした。
報道対応、国会への報告、議員説明、本邦へ到着してからの安全性確認。
目の回る忙しさですが、その日が暮れた時ホッとしたことを覚えています。
その後本格的な輸入のスタート。
トータルで不足分の「250万トン」の輸入ですから「天文学的数字」です。
国が違うと、考えや風習も違い、タイのように「麻袋」での輸出は限られた国。
「麻袋」でないと「三段階安全性確認」は出来ません。
各々の国を説得して日本人が「大丈夫」と思ってもらう仕組みを理解してもらうのに又、時間がかかりました。
そして、「米の自由化」問題も動き始めます。
10月に入り輸入のメドを付け、アメリカへ出張です。
アメリカ政府は「米は自由化」でしたが、米問題の直接の利害関係者への根回しです。
出来るだけ多くのアメリカ米を買ってくれるのであれば、「完全自由化」でなくても良い。との感触を得ました。
当時内閣は細川政権。
7月の総選挙で自民党が過半数割れ第一党でしたが、連立政権で細川内閣が8月9日に発足。
細川内閣は「政治改革と市場開放」が二本柱。連立政権の第一党は社会党。
米の部分自由化も反対の立場。野党・自民党の説明も含めテンヤワンヤでした。
対米交渉と国内の取りまとめで疲労困憊。それでも今しかないと、米国と合意し、そしてECに説明、了解させ、GATTの交渉テーブルにてマルチで合意、12月14日「米の部分自由化」がガットでも合意、細川談話を出し、年末を迎えました。
この頃の長男は病気がちと聞いており、そばにいられなかった事を今でも申し訳ないと思っています。
1994年の春からは、タイ米の消費拡大も行います。
この頃になると、政治家は言いたいことだけ言って、行政を掻き回すと、政治と行政の間合いに疑問を持ち始めます。
GATTの合意の方向性も決まり、米の輸入国とも良好な関係です。
国内在庫が「ない」と言っていたのに、所謂「ヤミ在庫」が出てきて、輸入した米が余り、売れなくなってきます。
特にタイ米は日本人の食味に合わないと 余り気味。消費拡大を行政が大使館と合同で実施です。
政治も細川内閣が「国民福祉税」と佐川急便からの借入金問題で躓き、4月28日突然の退陣。
羽田内閣も社会党の離反で、国会運営もままならず、予算通過が出来ずに、補正予算を繰り返し、
6月25日、自民党・社会党共同で内閣不信任案が提出されます。
羽田内閣は解散か総辞職かで悩むも、中選挙区下での選挙を避けるため「総辞職」を選択。2ヶ月間の内閣でした。
そして、6月30日に自・社・さ連立の村山政権の誕生。今まで想像しない枠組みの内閣の誕生です。
政策の方向性もままならず政治家は言いたい放題。
このままでは日本丸は沈没してしまうと思い始めました。
「良くて可能なことは断固やるべし。」恩師の言葉を繰り返し反芻しました。
行政官に執着するともっと大きな仕事が出来ない。行政官の「限界」を悟り、幅広い分野で日本の方向性を作って行くのは「政治家」と強く思い始めました。
当時行政官は今よりは遥かに幅広い仕事が出来ましたが、「所管」を越えた仕事は出来ません。
専門家はあくまで「専門家」です。
自分の力を使いたい。もっと幅広い仕事をしたい。省庁の壁を取り払った大きな仕事をしたい。
日に日にその思いは増していきました。
その頃、保守二代政党の一翼を担う「新進党」を結成する動きがありました。
思いが実現するか、地元に何度も足を運び、「瀬踏み」です。
1995年1月に「阪神・淡路大震災」が発生。大きな犠牲者を出してしまいました。
これではいけないと3月に「退職の意志決定」をし、その末に農林水産省を退官。
退職金は300万円でした。
[政治家を目指すも苦労の連続]
苦労の連続でした。
1996年10月の総選挙。初めての小選挙区制度での選挙。結果は、3番手。
翌1997年12月、新進党が解体。1999年始めまで無所属。
選挙区も移動し、2000年の選挙で初当選。
農林水産省を辞め、5年後のことでした。
2000年5月に初当選した時期はまだ日本の経済力も世界二位。まだまだ明るい材料は沢山ありました。
家族も一女二男で5人家族でした。
行政官の時代国会には何度も行きましたが、始めは緊張の連続でした。
やっと慣れてきた、2001年の9月、日本国内でBSE(狂牛病)に感染した牛が発見。
畜産業界はパニックです。生産者だけでなく消費者もと思い、私単独で狂牛病の先進国のイギリス・フランス・ドイツを訪問し、生産対策・消費者対策・食品安全委員会の設置等のレポートを取りまとめ、その後の議論の推進を行いました。
二年位たったある日から「新党」騒動の渦中に入ってしまいます。
この頃、精神的にも大変で家族等にも迷惑をかけました。
その頃騒動もあり、2003年10月の総選挙ではまさかの「苦杯」
改めて選挙のシビアさと恐ろしさを実感。
もう一度原点に戻り、挨拶回りの徹底をしました。
当時の選挙区の全部を訪問することが目標です。
2005年8月、突然の「郵政選挙」。満を持しての対応。
1000票差で次点、復活当選。
国会に地元に気力体力充実していますから、あらゆる仕事をしました。
党も地力を付け、「二大政党政治の定着か?」とも言われ、2009年8月の総選挙は圧勝。
・文部科学大臣政務官就任
鳩山内閣で「文部科学大臣政務官」に就任。
主に科学技術担当と文化の担当をし、国会対応では「高等学校授業料無償化法案」を通し、スーパーコンピューター「京」の開発を促進します。
やはり、一番にならないとダメなのです。
党と霞ヶ関の間の潤滑油として、課長・局長と通訳で政務三役や党との調整役もこなします。
2011年は国会対策委員会の取りまとめとして「東日本大震災」の立法業務を担当。
震災直後の「10日間」で基本法案他10本の法律案を策定しましたが、当時の幹事長から「ストップがかかり」作業は中断しますが、
その後も「再生エネルギー固定買取り制度特別措置」、「原子力の損害賠償法案 」等延べで20近い法律の制定に携わりました。
9月に菅内閣が退陣。
・内閣副大臣就任
野田内閣では、内閣府副大臣として、5人の大臣の補佐役として防災対策、地方主権・地域活性化、消費者対策、公務員制度改革、拉致問題、科学技術等で縦横無尽に活動させてもらいました。
大臣各々の個性もあり、大臣を立てながら仕事をするのもけっこう神経を使ったものです。
この時も仕事の理念は「良くて可能なことは断固やるべし。」でした。
どうしても出来ないことに時間を削るより、世の中に必要で実行可能なことからやって見よう、との想いです。
大災害も多く経験して、その延長線で「新型インフルエンザ特措法」の創設もしました。
2012年11月の国会の党首討論で解散が突然決定。
即政府・与党連絡会議で日程を決めると、話があり、幾つかの条件を提示しましたが、無視され、政権維持どころか完膚なきまで叩きのめされました。
私は有権者の皆さまのおかげで、しっかりと選挙区で当選させて頂きました。
今でも 心から感謝しています。
4期目の議員活動は、少なくなった党勢ですが思う存分活動しました。
・国会対策委員会委員長代行就任
この間も幾つもの重要法案の流れを作り、そして15年2月の「豪雪」の時は、
農家の災害復旧に、東日本大震災のスキームを取り入れ、ハウスのガレキ処理=10割公費負担、再建=9割公費負担、との仕組みを作り農業再建に大きく尽力できました。
そしてその秋、山梨県知事選挙への出馬を決意し、10月半ば、議員辞職します。
[知事時代]
県民党として15年1月、自民党・公明党・民主党・維新の党の推薦を得て当選。
山梨県知事として次の政策を実施し、実績を残しました。
1:全国知事会で3つの政策が優秀政策に
2015年度の3つの政策が、全国知事会が表彰する「人口減対策」「環境」「商工・労働」の優秀政策に選ばれました。
それぞれ「産前産後の母親を支える体制構築」(人口減対策)、「太陽光発電施設の適正導入ガイドライン」(環境)、「『やまなしパワー』による安価な電力供給」(商工・労働)で、山梨県が表彰されるのは初めてでした。
特に人口減対策では、全市町村と連携して産前産後ケアセンターを開設、全国初となる県全域での病児・病後児保育を構築し、人口減対策部門で2016年度〜2018年度の3年連続1位を獲得しました。
政府が2016年4月から実施している「年収360万円未満の世帯は3歳になるまで2人目の保育料は半額、3人目以降は無料」という政策を拡大し、「山梨県在住の年収640万円未満の世帯は3歳になるまで2人目以降の保育料は無料」としました。
2:民間資本を誘致し、人や産業の集積を図る
中央新幹線山梨県駅(仮称)の周辺について住宅や商業施設、地産地消型の発電設備や、総合球技場の整備を打ち出し、前知事による「商業施設を抑制し、公共施設に特化する」の方針と異なり、民間資本を誘致し、人や産業の集積を図ることを目指しました。そのため、2018年11月には開業8年後の1日の利用者数を1万2千人から2万人と想定しました。
3:様々な分野における女性の活躍の推進
県庁のワークライフバランスを推進するため2017年に「仕事と生活のこぴっと両立宣言」を行い、県民サービスの質の向上に取り組みました。
また、県政史上初となる女性副知事の他、部局長に登用するなど、女性活躍を積極的に推進してきました。
これにより、日本BPW連合会(働く女性たちの全国組織)から、働く女性に関する施策に対して、パートナーシップ・エバリュエーション賞を受賞しました。
4:未来を担う人材の育成・確保を推進
ⅰ.未来を担う人材の育成・確保を進めるため、大村智博士のノーベル生理学・医学賞の受賞を契機に2016年に「大村智人材育成基金」を造成し、高校生・大学生等の留学や研究の支援を開始しました。
2016年度は15名(高校生5名、大学生10名)に留学支援を、10名(自然科学5名、人文・社会科学5名)に研究支援を行い、中学生1名、高校生1名を表彰しました。
2017年度は16名(高校生4名、大学生12名)に留学支援を、10名(自然科学5名、人文・社会科学5名)に研究支援を行いました。
ⅱ.甲府工業高校へのAI等の先進システムなどに対応可能な専攻科設置を決定し、2019年より1学年あたり20名(機械系学科15名、電子系学科5名)の規模で開講しました。
また、人材不足が顕著な自動車整備士を確保するため、峡南高等技術専門校自動車整備科の定員を2017年から20名を25名に拡充した他、2016年に山梨県立大学に国際ビジネス観光コース、2017年に富士北稜高校に観光ビジネスコースをそれぞれ設置・開校しました。
5.再生可能エネルギーと水素の活用
バイオマス発電など再生可能エネルギーの活用を積極的に推進するため、2017年にはゴミ焼却熱による発電を実施する甲府・峡東クリーンセンター(年間発電量:約1.6万世帯分)、2018年には大月バイオマス発電所 (年間発電量:約3万世帯分)の稼働・開所を促進しました。
こうした取り組みにより、電力自給率(電力消費量に対する再生可能エネルギーによる供給量の割合)は全国6位となりました。
また、甲府市内への水素ステーション設置を支援するともに、水素ステーションの運転・管理の高度化等に関する技術開発を行うHySUT(一般社団法人水素供給利用技術協会)の「水素技術センター」を誘致しました。
6.地域産業の振興
海外で県産品の売り上げ向上を図るため、トップセールスを積極的に展開しました。
2016年には、シンガポール、マレーシアに海外販売・情報発信拠点をオープンし、2017年には、モモ・ブドウなど県産品21tの輸出実績を記録した他、県産果実の香港・台湾等への輸出を拡大しました。
加えて、赤系シャインマスカット、スイートコーン新作型の開発、ブランド品の開発などを行い、これらの取り組みにより、2017年には農業生産額が17年ぶりに1,000億円を突破しました。
また、キングサーモンとニジマスの掛け合わせによる新魚「ふじのすけ」の陸上養殖技術を開発し、販売に至りました。
7.医療・福祉の充実
健康寿命日本一の延伸に向け、2016年に胃がん予防の推進のため、ピロリ菌治療に対する助成制度を創設し、2017年には糖尿病の重症化を予防するため、医科歯科連携による早期発見・早期治療や全国初のC型肝炎治療終了者へ肝臓硬度測定によるフォローアップ検査等を実施しました。
また、同年、県立中央病院にゲノム診療センターの開設、24時間体制の精神科救急受診相談センターの設置を行い、都留市立病院での分娩再開の他、医師確保の推進(2014年:1,870人→2016年:1,924人)に取り組みました。
8.持続可能で効果的な財政運営
県税収入は知事就任期間中(2014〜2018年度)、1,000億円超を維持し、売電収入(やまなしパワー)の増加により一般会計への繰入を1.5億円増額を果たしました。
また、県債等残高(臨時財政対策債等を除く)は2014年度に比べ610億円の削減を達成しました。
これらの政策を通じて後藤県政を「大いに」または「ある程度」評価する人が79%に達し、県民から多くの支持がありました。