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78年前の今日と平成の米騒動

78年前の今日、太平洋戦争が勃発しました。当時の日本を取り巻く状況を打開したい思いが、真珠湾攻撃となり、4年余りの「暗い」時代が始まりました。
ヨーロッパ戦線と一体になり、世界中を巻き込んだ、「第二次世界大戦」と戦火は拡大し、地球上で残虐な出来事が毎日行われました。
結果、5千万人を超える尊い命が失われました。
究極の殺戮兵器である「原子力爆弾」が使われたのも、この時代です。
戦争が終わり、2度と「戦争を起こしてはいけない」との思いが、「国際連合」、「GATT」、「IMF」など世界中で協力して、世界平和や貿易や金融の秩序を維持していく仕組みを作り上げました。
これは、大戦前の世界経済では、「経済ブロック化」が進み、国々が過剰な自国保護政策を行い経済格差が拡大し、武力抗争になっていった大戦の反省から生まれたものです。
GATTは1948年(日本は55年に加入)から50年に亘って、世界の多角的な自由貿易体制を支えてきました。
国内産業の保護は、原則「関税」のみで対応するというものです。
8次に亘るラウンド交渉を通じ、50年間で、先進国の関税水準は十分の1以下まで下がりました。
私が直接担当したのは、第8回のウルグアイ ラウンドです。
この交渉は、100ヵ国以上が参加し8年間続きました。
特に、農業分野の交渉が難航しました。
農業は言うまでもなく、人間の生きていく最も重要な「食料」を供給する産業です。
日本だけでなく、米国やEU(当時はEC)も自国の「安全保障」も考え、又自身の得意な農産物をどう輸出拡大し、国内産業を活性化させるか「丁々発止」の交渉でした。
日本は特に「米」は「聖域」で、「一粒たりとも輸入はダメ」と国会からも、農業団体からも強い壁を作られていました。
80年代になり、日米の間では、牛肉、オレンジをもっと解放しろとの米国の強い要求と国内の畜産、果樹農家を守る日本側との交渉は大変なものでした。
当時私は、交渉の担当課に所属していましたが、今のように通信手段が整っていない時代でした。
やり取りは、国際電話、時差が米国だと12~15時間あるわけです。
昼夜が逆転ですので、本当に疲れ果てました。

国会対応に、与党、団体レク、コピー取り等それこそ何でもしました。
しばらくGATT交渉が「膠着」しましが、それを解き放ったのが、「米の緊急輸入」でした。
大不作が92,93年と続きました。

1992年、93年は「平成の米騒動」でした。
1年ならまだしも、2年連続の大不作です。
93年当時の日本人の米の消費量は、1000万トン、収穫予想が740万トンですから、260万トンの不足です。
政府の備蓄米だけでは足りません。
30年ぶりの本格輸入です。(沖縄の泡盛用の米は毎年タイから1万トン輸入していた)
当時はポストハーベストの問題で、日本の消費者は外国の食品の安全性に不安を持っていました。
あわせて国会決議で「一粒たりともダメ」との、縛りです。
当時は、昼夜を問わず、「仕事、仕事」の連続でした。
主食の米を「輸入」で補って「必要量」を確保すること。
GATT交渉をまとめること。
この大きな課題を関係させ「膠着」していた交渉が水面下で動き始めました。
輸入も、米国、タイ、中国、豪州との、交渉を繰り返しました。「安全性」と「量」の両方を確保しなければならないのです。
又国内的にも、米の禁輸政策の転換を「公言」しなければなりませんでした。
当時は細川政権が誕生して間もなくでした。
総理から「コメの緊急輸入を行う」と9月発表してもらうまで「不眠不休」の毎日でした。
明け方近くまで仕事をし、シャワーをしに家に帰る。
7時に家を出る。
国会対応が長引くと「完徹」でした。
それに輸入の実務です。
よく生き延びたと時々考えることがあります。その後、想定外の国内から「農家備蓄米」がでてきたり、タイ米が中々売れず、「ブレンド米」を作ってみたりと大変でした😰
GATT交渉も、日米合意、日EC合意、その後マルチで、締約国全体の合意と繋がっていきました。
12月には農業分野の大筋合意がされ、翌94年4月18日モロッコのマラケシュで「ウルグアイラウンド」の合意の調印式が行われました。
それでも各々の国で条約批准の手続きが進まず、日米ECが先頭にたち、94年12月8日締約国会議でWTO(世界貿易機構)は95年1月1日からスタートする、GATTは96年1月1日に解散すると合意されました。
今日は感慨深い日です。

そうそう!ジョン レノンの命日も今日でした。「yesterday」名曲です!大好きな曲です。

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